ユイマールの歩み

16歳で知った世界の現状

NGOユイマール創設者の照屋が世界の現状を知ったのは高校生の時だった。写真展でモンゴルのマンホールチルドレンの写真を目にし、ショックを受けた。6歳の男の子の頭は禿げ上がり、唇はネズミに齧られ腫れていた。「私が解決しなくては」と体に稲妻が走った。高校3年間はボランティア活動に明け暮れ、世界の現状について勉強した。アフリカの少年兵士、東南アジアの児童買春、世界中のストリートチルドレン、そして日本の児童虐待。「世界中の問題を解決したい」と大学で国際法・国際関係を専攻し、活動の第一カ国目にモンゴルを選んだ。

孤児院「太陽の子ども達」との出会い

19歳の夏、はじめてのモンゴルで奇跡の孤児院「太陽の子ども達」と出会った。孤児院を訪れるまでは「かわいそうな子どもたちを救いたい」と思っていたが、そんな考えは一瞬で吹き飛んだ。孤児院では、子ども達は1つの飴玉を噛んで分けてくれ、外を歩くと「寒いから」と着ていた服を脱ぎ照屋にかけてくれた。純粋で、心から人に尽くす子ども達との触れ合いの中で、癒されたのは子どもではなく、自分だった。孤児院「太陽の子ども達」に惚れ込み、大学時代も自費でモンゴルへ通い、子ども達との絆を深めていった。子ども達は優しく、たくましく、みんな夢をもっていた。本当に、この孤児院が大好きだった。
一方で、ショッキングな事実も知ることになった。モンゴルの孤児院卒業生の多くが再びマンホールへ戻り、マンホールアダルトとなっている。「大好きな子ども達の夢を叶える手伝いがしたい」という思いと、「貧困が解決しないのは中途半端な支援によることが原因ではないか」という問題意識を持つようになった。

孤児院「太陽の子ども達」の自立を目指して

大学卒業後、大学院に進学した照屋のもとに孤児院から緊急の支援要請が届いたため、照屋は大学院を休学し、5万円の資金を基にNGOを設立した。1人では何も出来ないと、大学時代の先輩、同期、後輩、友人らに声をかけた。全員無給、経費も自腹という悪条件の中、4人がスタッフに名乗り出、活動を開始した。まずは、子ども達が夢を実現するためには、彼らの学びたい専門教育へのアクセスが必要だと、学費・寮費・生活費を入学から卒業まで完全に給付する大学進学奨学金「ユイマール奨学金」を設立した。その後、自立を阻害する要因が子ども達の「諦め癖」「自己否定感」「心のより所の無さ」であることが分かり、孤児院と共に、音楽を通した自己肯定感の醸成、来日コンサートによる成功体験、ホームステイによる家族つくり、などを実施。
ユイマール設立から、のべ70人のスタッフが活動を支えた。専従スタッフ数名を除き、ほとんどが無給の学生インターンとプロボノスタッフ(弁護士や公認会計士など専門スキルをもった社会人ボランティア)だった。スタッフは、無給といえど、エントリーシートの提出、複数回に渡る採用面接を経て厳選され、最低1年の任期で活動にコミット。人件費がかからない分を孤児たちの自立支援に使った。

設立当初の目標を達成。モンゴルから世界へ

孤児院「太陽の子ども達」では、音楽による自己肯定感醸成が功を奏した。音楽の上達が成功体験となり、小さな成功体験を積み重ねていくうちに、大きな自信へと変化して行った。更に、年に一度の来日コンサート「太陽のコンサート」で子ども達は決定的に変わっていった。憧れの国日本へ自らの実力で行けること、大きな舞台でパフォーマンスし拍手喝采をあびること、お客様が価値を感じてチケット代金を払って観に来てくださること。「自分でもやれば出来る」「可能性は無限大だ」自信をつけた子ども達は、モンゴル帰国後、自らの夢実現への意欲が高まり、学業にも励むようになった。その結果、孤児院「太陽の子ども達」からは、最難関大学へ一位通過の合格者を何名も輩出、大学進学率90%、就職率100%を達成した。ユイマール設立当初は「孤児が大学進学は贅沢だ」と批判もされた。しかし、大学生が専門性を身につけ、成長していく姿に少しずつ共感の輪が広がり始め、他のNGOから孤児院「太陽の子ども達」の自立支援の申し出も受けるようになった。そして、2013年。孤児院「太陽の子ども達」の支援体制が強化され、ユイマールの支援が無くとも子ども達が自立出来ていく仕組みができた事から、孤児院「太陽の子ども達」の支援を完全に終了。団体のビジョンを世界の子ども達を対象とするものに変更し、「世界中の子ども達が、自尊心をもって暮らすことができ、自己実現を目指せる社会の実現」に向けて新たな挑戦を始めた。